こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、一年経ってもまだ思うんだから書いてスッキリしたいというタイプの記事です。
チラシの裏にでも書いとけという話なので、適当に読み流していただければということでお願いします。
わたしは博士課程前期(いわゆる修士)を修了して卒業しております。
自分で言うのもアレですが、結構頑張って研究したほうだと思います。
(研究室にプロジェクターとゲーム機があったり等)かなり良い環境で研究できたから、というのは非常に大きいと思います。
懇切丁寧に指導してくださった先生方には感謝してもしきれませんし、良い先輩、同期、後輩にも恵まれました。
そんな恵まれた環境ではありますが、自分なりに考え、新しいことにチャレンジし、良い結果が得られ、それなりの仕事ができたんじゃないかと自負しております。
修士のわりには好き勝手やらせてくれましたし、その上しょっちゅう様子を見にきてくださったり、困ったときには相談に乗ってくださりと、もう先生には足を向けて寝ることができません。
フルに、とまでは言えないかもしれませんが、環境を活かして研究できたので非常に楽しかったし、得られた知識やスキルは多かったと思います。
これから色々文句を書きますが、大学で過ごした時間は非常に楽しかったですし、大きく成長できたと実感しております。
一番憤りを感じたのは、修論の発表会で回ってきた他の研究室の人の修論が、自分の書いたものの4分の1程度の文量だったことです。
当然研究ですから、うまくいった、うまくいかなかったということがあって当然です。
それにしてもこんなのでいいのか?というレベルでした。
彼のことをどうこう言うつもりはなく、とても悲しくなりました。
自分でそれなりやってきていい経験をさせてもらったと思ったのに、それを台無しにされてしまったように感じたのです。
別に○○大学の修士ですという肩書がほしいから研究をしていたわけではありませんが、傍から見るとその彼と同じ肩書であり、同じレッテルを貼られたように感じたのです。
きっとそのことに憤りを感じたのだと思います。
誰に、というわけではありませんが。
じゃあドクター取ればよかったじゃんというのはおっしゃる通りですが、憤りを強く感じたのが修論を書いたあとでしたので後の祭りでした。
今は会社の金でドクター取れないかなと機会を伺っております。
取れそうになかったら会社を辞めて行くやもしれません。
もう一つは、ドクターの審査適当すぎやしません?ということです。
わたしの研究室にもドクターを取って出ていかれた先輩がいたのですが、なかなか大変そうでした。
念のために言っておくと、アカハラがあったという類のものではなく、ドクターとしてここまでやってね、という要求が高かったというものでした(先生は要求が高いだけでなくきちんとフォローされていたので先生の鑑だと思います)。
その水準が当然だと思っていたので、いざ他の研究室のドクターを見たときにおったまげたのです。
主査の教授次第というのはそうなのですが、ドクターってそんなに簡単に取れていいものなのかという気持ちになりました。
博士号を取った人に期待されること、すなわち備わっていると考えられる能力等として、以下のものがあると個人的には思っています。
・適当な課題を設定して研究を始める能力
・研究を遂行する能力
・研究成果をまとめる能力とそれを発信する能力
・専門分野に関連する深い知識
まあ勝手に思っているだけですし、博士号も持ってないやつが何を言っているんだ、と言われるかもしれませんが、ひよっこ研究者になりましたという意味では概ね間違っていないと思います。
これらの能力がないまま肩書を与えてしまうと、本人もかわいそうですし、肩書を与えたほうの資質も問われかねません。
加えて、肩書の価値を下げることにもなります。
ドクターを持っているからといってどうこう、という話ではないという人はよく見かけますので、結局は肩書でしかないんだなあとは感じています。
もうそうなってくると、博士号はわざわざ取る必要のあるものなのか?という気もしますが、色々見ていると、ないと始まらないみたいなこともあるのでどうすっかなあというところです。
肩書そのものに価値があるのではなく、その人の能力に価値があるのであって、あくまでも肩書は付加価値なんだなあと思います。
しかし、対外的には肩書で判断されることもあるのは事実です。
自分の中でそこをどう考えるか、ということかなあと思います。